瑠璃光寺 五重塔をたずねて



日本の三大名塔のひとつでもある瑠璃光寺五重塔
 

景観とマッチした五重塔は、間違いなく国宝一級品である。
私は、国宝の中でも上位の好きな所であり、もう何回も訪れている。
 

観光に訪れるひと誰もが、感嘆の声をはっする。

今から、600年前のものとは思えないほど、どっしりしていて、桧皮葺の檜皮葺の屋根が、瓦屋根と違った独特の雰囲気を醸し出している。
手前の池と後ろの山の木々の緑とが、歴史を重ねながらともに調和してがとれている。
 

瑠璃光寺は、お寺というより、一帯として公園として整備されている。
鴬張りの石畳や沈流亭は、観光バスツアーでは案内されないが、是非よってみたい。
 

 

 

現在の五重塔のある瑠璃光寺は、もともとは「香積寺」というお寺があった。大内義弘が菩提寺として建てたお寺である。

大内義弘の死後、弟の盛見(もりはる)が、兄の菩提を弔うために、香積寺の境内に五重塔を建立に着手した。塔が完成したのは1442年で着工から30年以上かかった。

大内家は「大内文化」と称されているぐらい朝鮮貿易なども盛んに行い繁栄していた。特に義弘、盛見(もりはる)の時代は特に経済的にも豊かであった。この繁栄を背景にすばらしい五重塔も生まれたのであろう。
大内家200年が続くが、第31代大内義隆が、家臣のすえはるかた(陶晴賢)の謀反により1551年に滅びてしまう。その陶晴賢も4年後に毛利元就に敗れる。

毛利元就は、中国8箇所を所領する大名までなったが、関ヶ原の戦いに破れ、徳川家康に命じられ、萩に移封されてしまう。そして毛利家の萩への移転とともに香積寺も萩に移築されることになった。

寺の移転と同時に五重塔も解体され移築されるはずだったが、地元の人の嘆願書で塔が残ることが認められた。この当時の町民の行動としては珍しいことであるとともに、その嘆願が聞きとどけられたことも珍しい。当時の地元の人の五重塔に対する愛情と気持ちが察せられる。

五重塔だけが残ったことになるが、1690年に山口市仁保というところから、現在の瑠璃光寺が移転した。瑠璃光寺の歴史も古く曹洞宗の中国3寺のひとつで末寺も多くあったお寺であったとされている。

五重塔には、阿弥陀如来像とともに、大内義弘の菩提を弔もらうために建立されたことから大内義弘像が安置されている。200年の大内家の繁栄の象徴とも言えるかもしれない。
またそれを守る住民がいて現在も美しく五重塔が輝いている。
(引用 瑠璃光寺五重塔守る会 杉山浩政様 講演会資料)
 


 

 

 香山公園


 
瑠璃光寺敷地一帯は、「香山公園」として、きれいに整備されている。

 


・国宝五重塔
・瑠璃光寺本堂
・手をたたくと不思議に反響する「うぐいすばりの石畳」
・薩長の志士達が密談をした「沈柳亭」
・毛利一族のお墓
・五重塔歴史館
など敷地内に他の施設が集合している。

 


 

その中で「枕流亭」(ちんりゅうてい)という建物を紹介する。

建物の説明書きによると、山口市内から移築されたものであるが、薩摩、長州、坂本龍馬などが倒幕の密談をした場所だったらしい。

その建物「枕流亭」は解放されている。

一階はパネル展示になっていて、明治維新に活躍した人の顔写真と紹介がされている。
二階は当時のままのようだ。その二階からは、瑠璃光寺五重塔が木と木の間から見える。

二階の畳に座り、江戸末期の密談風景を想像しながら、600年前の五重塔をみているとなぜか不思議な気がしてくる。

 

 

瑠璃光寺に立ち寄るバスツアーでは、「枕流亭」は素通りというか、よらないので、知る人ぞ知る場所である。

枕流亭の二階の畳で胡坐をかいて、五重塔を眺めながら、明治と安土桃山時代の贅沢な時を味わう。